シマフクロウの目線

世界を広く、見て・聞いて・感じて、そして・・・

故郷に戻りたいのです

 ですから、人がいくら世界の舞台に出て成功したとしても、成功したのちには、その次はどこに行くかといえば、故郷に戻りたいのです。皆さんもそうでしょう。故郷が特別なのではありません。故郷に行っても特別なものはありません。

 生活環境から考えるてみると、自分が現在、外国であれば外国、世界に出て成功している環境よりも劣るのです。では、そこには何があるのでしょうか。

 昔の、情緒的過去が生きているのです。情を中心として、昔生きていたことを忘れることができないのです。その情緒的な内容が、他郷の生活と故郷での生活とでは異なるのです。

 他郷でいくら生活をしても、感じ方、深い愛の内的な因縁を中心とした関係が結ばれないのです。これは環境的条件から見てもそうです。

1986年2月16日 ソウル本部教会にて( 説教より抜粋)

高低が兼ね備えられていなければなりません

 自動車の回る車輪を見ると、必ず芯棒を中心として回転するのです。その芯棒は強いものです。剛柔を兼ね備えなければ燃えてしますのです。剛柔が兼ね備えられていなければなりません。高低が兼ね備えられていなければなりません。

 音楽もそうでしょう? 名曲などはすべてが和音となります。和音になるためには高低があわなければなりません。これが小さく合っていても、大きく受け継ぐようになっても、全部ある時になればそれがマッチして、一つの波動のようになります。

 一つの幅の中にいくつもの音節を入れても、その幅が一つの波動となって、複雑な内容をもっていても一つの波動として感じられるので、人間は和音として受け入れるのです。

1986年2月16日 ソウル本部教会にて( 説教より抜粋)

なぜ生きるのかという問題を中心として考えるとき

 それで人が生きるとき、漠然と生きるのではなく、人間としての行くべき中心点を中心として生きているということを、私たちは考えるのです。

 なぜ生きるのかという問題を中心として考えるとき、私が生きていることは、ただ食事をして毎日が循環の起動に従って生きる、そのような方式によって生きるのではなく、生きるということ自体は必ずある中心点に向かって生きているのです。

 中心点に行けばどうのようになるか。自分一人ではないのです。そこには関係の世界展開されるのです。

 一つは相対関係、一つは縦的な関係、縦横の関係をもつようになります。そうすることによって、中央に来る以前までは平行線のみを見つめていたのが、中央に来てから垂直線、上と下を見なければならないのです。これはなぜでようか。

 そうすることにおいてのみ、球形が成されるのです。すべて運動するものは球形に似るようになっているのです。

1986年2月16日 ソウル本部教会にて( 説教より抜粋)

 

上下、左右までもがすべて相対的な立場において均衡がとれていなければなりません

 東と西がいつも相対することができるのは、中央線をもっているからです。中心を備えているために、相対することができるのです。もし中央点が決定されなければ、東と西の位置は、いくらその位置が設定されたとしても全体的な均衡の世界において認めることはできないのです。

 南と北も同じです。南と北が中央線上の中心点を中心として通じなければ、その相対する基準は、全体の均衡をとるとき、何ら関係がないのです。

 そして、東西が合うことのできるその中央点、南北が合うことのできる中央点は、二つでなく一つなのです。この二つでない一つ、この一つの立場は簡単ではありません。そこにおいては、必ず90度を備えなければならず、上下、左右までもがすべて相対的な立場において均衡がとれていなければなりません。

1986年2月16日 ソウル本部教会にて( 説教より抜粋)

人生の目的

人間は一体なんのために生きているのでしょうか?

これは一見、簡単なようで難しい問題ですね。

なぜなら、

人間はだれ一人して自分の意志でこの世に生まれて来た者はなく、

また、自分の意志で生きながらえることもできないからです。

人間一人一人の生と死、性別、出生の順序、性格、容姿、能力、生まれて来る時間や場所

これらのものは、どれ一つとして自分の意のままになるものではありません。

それは全くの偶然によって決まるのか、それとも人間の意志を超えた存在によって、それらのものが計画的に定めらたのかのどちらかでしょうね。